法得寺について

 - 法得寺について

親鷲聖人ニ十四革第一番 性信房(しょうしんぼう)開基

佐川野 法得寺の縁起·由来

法得寺縁起によれば、その歴史は大変古く、正治元年(一一九九年)に現在の茨城県坂東市である下総国 弓田城主・松崎筑前守勝久公まつざきちくぜんのかみかつひさこうによる父母菩提の為に建立された七堂伽藍を有する霊場で、当時は下野国(栃木県)佐川野に建つ天台宗薬王山医王寺というお寺でした。

健保二年(一二一四年)十二月二日、親鸞しんらん 聖人と性信房しょうしんぼう (聖人生涯初めての弟子)が越後(新潟県)より、性信房の生まれ故郷である常陸(茨城県)に向かう道中、霊場巡拝の思いから、医王寺本堂太子等の諸堂にお立ち寄りになりました。

それが聖人と当山との最初のご勝縁となりました。

親鸞聖人と性信房は諸堂参詣が丁寧のあまり夕方になってしまわれたので、境内の経蔵にお泊りになることになりました。

当時の住職であった権僧正・漂空法師たんぐうほっしは、法然上人以来の一向専修の念仏の教えに疑念がありましたが、その夜、弟子とともにご寝所である経蔵を訪ね、 親鸞聖人から専修念仏の真意を尋ね聞き、たちどころに入信の念がおこり、感激の余りその思いを述べたといわれます。

すると、聖人は蓮華面経を開き「阿難我仏法非余能壌是我法中諸悪比丘猶如毒刺破我三阿僧祇劫積行勤菩所集仏法」と読みました。

その仏願功徳の尊さを聞き、自らの邪念を恥じ、懺悔の気持ちを持った漂空法師は、しばらく親鸞聖人にこの地に留まることを懇願されました。

親鸞聖人はその意を聞き入れ、翌三年の正月まで滞在され、その後、現在の笠間市稲田の地に草庵を結ばれ、そこを拠点に布教伝道に励まれました。

漂空法師は弟子とともに時々稲田草庵を訪れ、聖人より他力本願の念仏の教えを頂いておりました。

そして寺号を法得寺と改め、天台宗より浄土真宗に転宗したのは仁治三年(一二四二年)三月といわれています。

当時住職であった漂空法師は、その転宗を機に親鸞聖人と同行の性信房に相続·開基住職をお願いし、宗義を浄土真宗に、寺号を高栄山上宮院法得寺に改めました。

法得寺開基性信房は三年三カ月住持しますが、当山二世を漂空に譲り、横曾根·飯沼へ活動の拠点を移し念仏弘通に尽力しました。

親鸞聖人の子・善鸞が起こした異端事件では、その解決に尽力したことで知られています。

性信房は健治元年(一二七五年)七月十七日に高齢八九才で往生の素懐を遂げたといいます。

近年の真宗史研究によれば、性信房は板東報恩寺の他に四つの法得寺を建立したということです。

それは当山法得寺、奥州土湯法得寺(福島県)、上総茂原法得寺(千葉県)、鎌倉法得寺(神奈川県)であるといいます。

しかし他の法得寺は転宗または廃寺となっており、浄土真宗を伝える法得寺として現存するのは当山のみとなっています。

法得寺は開創より八百年の星霜を経て、本願寺東西分流以後は本願寺派(お西)に属し、いろいろな辛苦法難を乗り越え、連綿と法灯が受け継がれ、本願念仏の弘法宣布に努め、現在に至っています。

住職ごあいさつ

法得寺は浄土真宗への転宗を機に現在の寺号になってから七五〇年あまり、現在の栃木県野木町・佐川野の地でお念仏のみ教えをお伝えしてきました。

時代によって社会が変化し、私たちを取り巻く環境もめまぐるしく変わっていきますが、その中にあっても変わらない南無阿弥陀仏というお念仏のみ教えが一人でも多くの方に伝わることを私は望んでおります。

現代はお寺が身近ではない・縁遠いものになっている方も多いと思います。

法得寺ではお寺が少しでも身近なものになるよう、仏法を聞く法話会のほかに、コンサートなどのイベントも開催しています。どうぞお参りください。

法得寺二八世住職 大中明英

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〒329-0104
栃木県下都賀郡野木町佐川野468-1

TEL:0280-55-0808

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